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祭りのあと [祭]

多くの人々が”祭り”と言う時,その言葉は本来の神事から拡張して,
何か日常の心の水面に漣を立てて吹き抜ける一陣の風の
ような趣が込められているのではなかろうか.日常では許されないような
晴着を纏い,華やいだ笑い顔に混じって人ごみにおされながら
夜店を覗く時,そこには不思議な高揚と爽快の空気が満ちる.
祭りは大げさに言えば人々の開放の希求とどこかで繋がっているのであろう.
寝ぼけた日常の惰性をほんの一瞬でも破るこの開放区の幻想は
祭りにどこか重い象徴性を持たせることになる.なぜなら祭りには
必ずや終わりがあるからだ.人々が去った後の夜店には寂しく風車が回り,
のぼり旗が夜風にはためいている.今や明々と輝いていた電球は消え,
暗い夜道に雑踏の残骸のような塵が舞う.祭りのおわりに対して
抱く人々の想いは闇にすいこまれる打ち上げ花火のように重い.
だが,映画「ノスタルジア」の監督アンドレイ・タルコフスキーの父,
 かつ詩人アルセーニー・タルコフスキーは僕等に問いかける.
 祭りのおわりに臨んで
 ”いかに泣くべきか,何を誇るべきか”
  ”死してのちいかに燃ゆるべきか”を!

光を失くしてゆく視覚ー僕の力,
二本の目に見えないダイアモンドの槍.
音を失くしてゆく聴覚,かっての轟きと
父の家の息吹に満ちているのに.
たくましい腕の筋肉も衰えた,
地を耕す灰色の去勢牛のよう.
それに夜が来てももう輝かない
僕の両肩から伸びたふたつの翼は.

僕は蝋燭,僕は宴で燃え尽きた.
朝になったら僕の蝋を集めてください,
するとあなたにそっと教えるでしょう,この
 頁が,
いかに泣くべきか,何を誇るべきか,
さいごに残った楽しみの三分の一をいかに
みなに分け与え,安らかに死を迎え,
そしてたまさかの宿りのもと
言葉のごとく,死してのちいかに燃ゆるべき
 かを.

「雪が降るまえに」,A.タルコフスキー著,坂庭淳史訳,鳥影社,p237

アルセーニー・タルコフスキーの詩は
美しさからすり抜けて,喪失に安住することを激しく糾弾する.
これは最後まで燃えることの肯定だ.いかに泣くべきか,何を
誇るべきか,死してなお燃えんとする詩人の視野は現実をはるかに越えて
深く広い象徴の海に広がていく.

雲遠景.jpeg
 




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夜のオーラ;NOCTAURA [絵画制作と絵画論]

 知人が数日後に結婚式を挙げるという.結婚式の翌日は誕生日
が控えているのでお祝いをどうしようかということになった.最近
は実入りが少ないので小さな自作の絵でも良いかと聞いたら,
カードだけでもいいのに絵ならいいもわるいも無いとの返事である.
さっそく25cm四方のベニヤ板を買ってきて制作を開始することに
なった.期限は郵送の日時を考えると2日間,ゆっくり練っている
時間は無い.彼女の好きな色は赤である.

noctauraP1.jpg

 赤の象徴的意味でまっさきに思いつくのは興奮,怒り等と結びつく
気分の高揚である.これは価値観によって評価は低くも高くも
なる.政治的意味合いで革命や変革の旗印として使われるから
好かれもするが,立場が違えば憎悪の対象にもなるのも同じ
理由からであろう.しかし赤は同時に危険や警告の印でもある.
”寿”の字をあざやかな朱色で書くのは,危険や警告の意味も
こめてのことであろうか(まさか!).いずれにしてもこのような
平板な象徴によりかかるのは面白みが無い.ランボーの良く
知られている詩に「永遠」がある.

noctauraP2.jpg

とうとう見つかったよ.
なにがさ?永遠というもの.
没陽といっしょに,
去ってしまった海のことだ.

みつめている魂よ.
炎のなかの昼と
一物ももたぬ夜との
告白をしようではないか.

人間らしい祈願や,
ありふれた衝動で,
たちまち,われを忘れて
君は,どこかえ飛び去る・・・.

夢にも,希望などではない.
よろこびからでもない.
忍耐づよい勉学・・.
だが,天罰は,覿面だ.

ひとすじの情熱から,
繻子の熾火は,
”あっ,とうとう”とも言わずに,
燃えつきて,消えてゆくのだ.

とうとう見つかったよ.
なにがさ?永遠というもの.
没陽といっしょに,
去ってしまった海のことだ.

金子光晴訳; 角川文庫,「ランボオ詩集」より

noctaura2.jpg

真っ赤に燃えて海に融けて行く太陽は常識的な象徴ではない.
赤の色彩の補色は緑であるが,太陽の昼との対比で漆黒の
闇を加算したらどうなるのだろうか.いや,むしろ夜の
周縁にからみつく昼,昼の周縁としての夜の方が
イマジネーションが飛翔できる.夜からしみ出るものがnoctaura
で(つまり夜のオーラ),それは昼の断片を吸って生きる
noctiluca(夜光虫)だったりして・・.座標をずらせば
昼全体が夜のnoctauraという観方も可能なのだ.とすれば
単一の赤というのは完全に一つの誤解で,彩度,明度の異なる
スカーレット,カーマイン,ヴァミリオン,チェリー・レッド,ルビー,
レーキ,ピンク,・・・の巨大な集合体ということになる.

タイトルNOCTAURAはわずか一日で完成して彼女に
送り届けられたが 感想はまだ聞いていない.
「えー,なにこれ!」を言われたらどうしよう.


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生物のデザインと和のデザイン [生命]


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稲の束.jpg
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カラスアゲハ.jpg
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長年馴染んできた朱塗りの椀,南部の鉄瓶,正月の松飾,神棚,水引,障子・・等の
デザインはどこから来たのだろうか. これを和のデザインの典型と見るかどうかは,
賑々しい神輿の装飾を見ると,過剰なるものを極限にまでそぎ落とした減算の美に
統一するのもいささか単純すぎるようにも思える.しかし,単純さの追求において”和”
のデザインが世界でも極めて突出した位置を占めていることは確かであろう.
 生物の形態の中にはあたかも和のデザインの根底を流れる思想と共振するかのような
究極的機能美に驚かされる時が有る.カナブンの流麗な曲線などは工業デザインの
見果てぬ夢そのもので,深いエメラルド色に燃える姿に今年の夏は何度も魅せられた.
機能美と不用意に言ったが,デザインとの対比で考えれば美は明らかに機能から
はみ出る過剰なものでもある.変異と自然選択という生物進化の理論がデザインを
あますことなく説明できるのだろうか.悠然と羽根を休めている黒一色のカラスアゲハ,
その姿を特徴付ける総てが選択で磨かれた機能と無理に主張しようとすれば,妙な
こじつけが山ほど必要になる.ラズベリーの実が色づいてゆっくりと風に揺れている.

曲は本当は月と花とキツネをイメージしたもの,
          今回は写真がちょっとしっくりしないかもしれない.
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喪の風景 [作曲]


本部机.jpeg
祈願灯.jpeg

あのひとは,あの子は帰らない.
私は何日も何夜も食事の準備をして待つ.
蝋燭を灯し,食器を洗い,そのひとの衣服を整えて.
私は耐える.不在の儀式は死を受け入れないことだから.
くりかえしくりかえし同じことをして・・・.
私は忠実になろうとしているのだ.
どこかえいってしまったあのひとのために.

ふと私は奇妙な居心地悪さを感じる.
いったいなぜ私はこんなところに留まっているのか.
私は会話をし,歩き,食事をし,あのひとを忘れようとしている.
私は不完全なのだ.半身をもがれて苦しみに耐えようとしている.
私はたまりかねて外出し,意味も無くさ迷う.

ひとびとはなぜ笑うことが出来るのだろう.
こんなにも苦しんでいる私が見えないのだろうか.
私は疲れてしゃがみこむ.大都会で,けわしい山道で,戦場で,
鬼火が青く燃えるそこかしこで.

ああ,私を待っていてくれるものは居ないのか.
夜ごと蝋燭の灯の下私を抱きしめてくれるものは.
私のひび割れた手足はぼろぼろで
地の底から野獣のようにうめき声を上げる.
髪の毛からは冥界の匂いが漂い
その時,私はあのひとの吐息を確かに感じた.
そうだ,私を助けてくれるのはあのひとしかいないのだ!

見上げると木立を風が吹き抜け
空を一片の白い雲が漂っていく.
あのひとは死んだのか!
私の前から永遠に消えたのか!
私はあのひとにさようならを言った.
また会う日まで待っててねと.
タグ:作曲 不在
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誕生前夜 [作曲]


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コオヤボオキ2008-325.jpg
シュンラン2008a.jpg

工房の周囲の森の中もようやく春となりました.
 ヤマザクラはまだ蕾も固いのですが,
  コナラの芽は日ごとに成長してきています.
 冬に薄紅色の花を咲かせたコウヤボウキの若芽も芽吹いて
 何よりもシュンランの花が春の渡来を告げているようです.

 でも,今回の曲はもう少しねじれていて
以下の詩;”誕生前夜”の方が内容的に近いのかもしれません.


炎,
焼き尽くすもの
生きるための死を生み出せない貪欲な消費者よ
死,
破壊と誤解される凍てつく大地
幼い自分を食い尽くすおまえの苦痛と歓喜を知るものは少ない
食事と言う快楽さへ捨てたというのに

おお,何という織物か
見捨てられた醜悪な手触り
やがて生まれるものたちのために
おまえの裸の神経を包むのは蛇の皮だけだ
生まれてくるのは昨日ではない何か
そう,今のおまえさえもが理解できない未知なる自分自身

それまでは無視するがいい
動かないから死んだと思うような愚かな常識は


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2008年元旦;かすかな不安と快晴と [作曲]

 2008年元旦,早朝の町にはさすがに人気が無い.快晴の空にはハトの群れが旋回し,背後から町をオレンジ色に染める陽光は洋々たる行く手を象徴するかのように明るい.この光景は陽だまりで独楽に興じた少年時代のものだ.しもやけで膨れ上がった手の上に鉄製の独楽を掬い取り,木綿の紐の上を往復させた僕等の背後からはそれと同等のローテクの台所の煙が立ち昇ってくる.木のくすぶる匂いが消えて,僕等の目の前には総て制御された炊飯器があたりまえのように電源が入るのを待ち構えている.だがこの極上の贅沢にはかすかな不信というのか,不満の声が浴びせられるのはなぜだろうか.誰もが感ずる漠とした不安の根があれこれの浮かれた遊興に酔えない覚めた視線を生み出しているのだろうか.

 寒風の冬は持てざるものに厳しい試練の時を与え続けてきた.しかし,冬は同時に炉辺の安息をも約束したはずだ.湯が沸騰する音を聞きながら,子供達は物語に熱中し,見たことも無い空想の織物を仕上げてきた.ふと振り返ると,この織物は視界から消えて,今や「夢」と言う野望が子供達を勝者であるべく駆り立ているかのような気配すら感じる.

 


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無機質に彩られることへの怖れとあこがれと [作曲]

   

 人類が完全にこの地上からいなくなったらどうなるのか,この問いかけの背景には深刻な地球環境の変動があるにちがいない.人類生存の永続性に関する疑問はかっては核戦争の勃発で有った.この問いかけそのものは,原因を不問にすれば今を間接的に理解する一種の思考実験となりうる.事実,来春早川書房より「私たちのいない世界」(The world without us, by Alan Weisman)が刊行される予定だという.刊行まで待てない方はインタビュー記事が”日経サイエンス,2007年11月号に掲載されているので,それが参考になるだろう.維持管理の努力は目立たない仕事なので普段はその重要性をそれほど意識していないが,ニューヨークの摩天楼ビルはわずか数十年で倒壊することは何が重要かを考えるヒントを含んでいるに違いない.人が手を入れることの無くなった道路には亀裂が入り,2~4年後には雑草で覆われやがては壊滅する.
 これほど大規模な思考実験でなくとも我々の周囲には崩壊の芽がいたるところにころがっている.人の環境への介入のマイナス面ばかりが強調されているが,根こそぎ住人が住処を後にした村崩壊の速さは想像以上のものがある.廃墟には繁殖力が旺盛で強靭なウルシやススキ,ヨモギ,クズが繁茂し,ぶ厚い緑の壁は決して野生動物の天国にはなっていない.僕の工房の近くにも耕作を放棄した放置田畑が無数に有るが,年一度の草刈や除草もしないところは身の丈を越えるようなススキの壁が感傷的緑信仰を哄笑しているようである.
 しかし,さらにつっこんでアナーキーな生命の饗宴が終わったところで生命の終焉のイメージはどうなるのだろうか.少なからぬ植物や動物がその一生を終え,落日の冬景色の中で生命の衰えや総てと言わないまでも生命の消滅を目にすることに,かすかな恐怖の匂い嗅ぎ取らない者がいるのだろうか.生命もまた無機質に還元されることへの不断の抵抗によってしか維持されないことが事実として有るとすれば,この怖れを理解することは難しいことではない,困難は母なる物質の世界にすら,それこそ微々たる兆候のような茫漠たるものかもしれないにしても強烈な魅力を我々が感じていることである.無機質への関心はどこか巨大な物質世界の闇の中に広がっていて,我々の精神世界の手ごわさを象徴しているかのようである.

 写真はニューメキシコの砂漠で何年か前撮ったものである.今回の曲はそんなことを考えながら作ったがなぜか,結構テンポの速い激しい曲になってしまった.不思議!

 

 

 

 

 


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「身体と夢」のポスター [工房の使命]

ずいぶんとブログをご無沙汰してしまった.一ヶ月ぐらいUPもしなかったから,忘れられてしまったかもしれない.一番の理由は,仕事場である工房の外仕事が切れ目無く続いたからである.
工房といっても自分独りがもっぱら運営するちっぽけなもので,私費をつぎこんでの非営利施設はほっとけばたちまち雑草が生い茂ってしまう厄介な荒地でもある.”アートと生命システムの探求”と見栄を切ったのはいいが,訪れる客も無く,松林の静けさが取柄といった環境では助っ人も逃げ出すだろう.その施設もこの十月で開設一周年を迎えた.ということは建物もほころびが出始めるころで,テラスやログ・ハウスの外壁,扉は強烈な紫外線や風雨を浴びて反り返り,ひび割れて腐食が深刻であることが判明した.テラスに置いたパラソルもカラスがつついてぼろぼろ,コンテナを利用した鉄製の建物は雨漏りが進行,ペンキは艶を失い亀裂が走っている.庭に敷いた砂利も浮き上がって坂道では滑りやすく,4月に骨折した悪夢が脳裏をよぎる.周囲の林は典型的な放置林で,漆の木やススキ,ヨモギが生い茂り,猛暑の中では恐るべき速さで緑の手足が伸びて行くのだ.片付けを怠った木片にはシロアリが巣食い,湿った物陰には必ずといっていいほどムカデが潜んでいる.エアコンの故障,浄化槽の手入れ,庭木の病気,と新たな仕事が休むことを許してくれない.強烈な太陽の下で蚊の襲撃に耐えながら仕事をしていると,汗が胸から滴り落ち,思考停止の中で自分の呼吸を確保するのがやっとという状態が何日も続いた.それが今ようやく夕暮れ時が早まるとともに冷たい冷気を感じるようになって来た.

 ともあれ,秋が深まり一周年の節目を通り越した.記念に何かをと制作したのが写真の工房紹介フライヤーとポスターである.工房の性格をシンボライズする詩;「身体と夢」,志田 寿人作をイメージしたものであるが,あまり具体的なな紹介にはなっていないかもしれない.興味の有る方はHPを訪問していただければ幸いである. http://www.symplexus.jp がURLで,こちらにはもう少し親切で詳しい紹介が載っている.

 フライヤーには以下の原詩が,ポスターには磯村 健氏の英訳詩が使われている.これを解説するのは野暮なことであろう.多義的な解釈が当然であるから,各自の受け取り方から自由に内容を展開していただきたいと思う.

水に生まれた者たちは時々夢を見る
数え切れない昼に,また夜に

目覚めているのは夜,それとも昼?
沢山の言葉が昼に生まれて夢を紡ぐ
そして夜に夢から覚める

父よ,僕に教えてくれ
歌わない者達がなぜいるのか
語らない者達がなぜいるのかを
 
不完全な目よ,耳よ
またぶざまな身体よ
空中を走る鳥たちが笑っている
意味も無く多くを喋る僕らを
ほんのわずかしか見えていない僕らを

何万行の完璧な記号に感動なんて
生きているということを納得させて欲しい
呼吸する僕に
少しずつ死に,
少しずつ生き返る僕に

涙は未来からの贈物と誰かがい言ったね
現在だけ,涙は必要ないと笑った君には
  凍りついた永遠が残される

太陽が輝く
日没が近いからだ

水に生まれた者たちは時々夢を見る
数え切れない昼に,また夜に         

          「身体と夢」, 志田 寿人,2006

The water-born creatures dream a dream
On thousands days,
On thousands nights

Are they awaking at night or day?
A lot of words rise up to daylight and spin a dream
And wake up from dream on nighttime

Father, Let me see
The reason of there is un-singing one
The reason of there is un-talking one

Incomplete eyes, ears
And clumsy my bodies
The birds riding in the air, Laughed on us
So much speak without meaning,
So little thing gain out from seeing

Is there any emotion on thousands of thousands complete fomula?
Persuade to me
Exactly I am living,
To me, now breathing,
To me,
Moment by moment to die,
Moment by moment to revive

Some says, the tear is a gift from the future
But you, say
Only the present is needed, and 
You laughed tear is so useless
Only the frozen future remains on
 
The sun shines
Cause the sunset is coming 
 
From water-born creatures dream a dream
On thousands days,
On thousands nights  

Original poem; “身体と夢(BODY AND DREAM)”in Japanese  bY Hisato Shida,  2006
             English translation: Ken Isomura


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夏の終わりに [作曲]



夏を人生の華と捉える視点は珍しくない.若さや活力への礼賛でもある.
虫たちがせわしく飛び交い,林はセミ達の鳴き声で終日明け暮れる.
日は高く天空にあり,影の無い風景の中に生きることの陰影など蹴散らされそうだ.
英語ではsummerを歳の意味で使う場合があるが,これは人生の盛りにある
人達に限られている.苦渋を重ねた老年に対しては対極である冬;
winterが用意されていて逃げようがない.しかし,これはいかにも月並みな
見方とは言えないだろうか.
 生と死は画然と区別された瞬間に突然来るわけでは無い.燃えることに
よって,つまり絶えざる死の積み重ねによってしか生を維持することはできない
ことを詩人アルセーニー・タルコフスキーは蝋燭と重ねている.

   黄色い舌をゆらめかせ
蝋燭がゆっくりととけて流れてゆく.
そうやって僕たち二人も生きているね,
魂は燃え,肉体は融けてゆく.
「雪が降るまえに」 アルセーニー・タルコフスキー著,坂庭敦史訳,鳥影社,p8

燃え尽きる瞬間は夏の只中にも顔をのぞかせる時がある.盛夏の庭に
無造作に転がっている干からびたセミの死骸,その遠景にはかげろうが
揺れ近景には死体にむらがるアリ達がいる.影の少ない風景はむしろ
僕等の感覚への幻惑の証だ.そして,誰の目にも明らかな早まる日没,
力を日ごとに弱めていく日輪の季節,秋こそ考える季節の到来と言えない
だろうか.

 曲はいささか変化の少ない曲,タイトルは”an epilogue of the summer"


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めぐり続けることって [作曲]

 

「恋する者は,フィギュールの貯蔵庫を開き,おのが想像界の命令を,
あるいはその快楽を,必要に応じて取り出してくるのである.
ひとつひとつのフィギュールは,全体としてのメロディーから切り離された
単独の音のようにして,ひとり炸裂し,振動する.あるいは,
たゆとう楽曲の構成モチーフののように,あきあきするほど
同じものがくりかえされたりもする」
 ロラン・バルト,”恋愛のディスクール・断章”,みすず書房,三好郁朗訳,p11

 フランスの哲学者バルトの上述の言葉は,めぐり続けるものの秘密をあばくかのようで立止ませるものがある.止まることことなく回るが,決して進展することのないものとして”恋愛”を見る視点には異論があるかもしれない.興奮し,衝突し,静まるが,論理も統合も無いと断言されればなおさらであろう.統合的なものでなければ当然真の意味での超越性も,救済も,小説的構造もないことになる.もちろん恋愛は,生まれ,発展し,死ぬ,ひとつの道筋はあるとしているバルトではあるが,彼の視界には個々の挿話,断片間の相互,連関が認められなかったということに違いない. 

 おおかたのブーイングが聞こえるようであるが,僕にはこのバルトの断言が妙に生々しく響いてくるのはなぜだろうか.平凡な経歴しか持たない者がこのようなことを言ったところで失笑を買うだけであるが,メリーゴーランドのように回転するイメージを音にすれば少しは説得力があるかもしれない.

 タイトルは”hug me softly", 別に”killing me softly"を知らなかったわけではないけど,なんとなくそこに落ち着いてしまった.”・・たく,いいかげんにしてほしい!”・・・ですか.もっともですね.

 

 


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