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●ティツィアーノ;「ニンフと牧人」をめぐって [絵画制作と絵画論]

■ウィーン美術史美術館に所蔵されている「ニンフと牧人」はイタリア盛期ルネサンスを代表する一人;ティツィアーノ・ヴェチェッリオ最晩年の作品である.百歳近くまで生きた画家が亡くなる数ヶ月前に制作したと言われているが,死後アトリエに残されたままになっていたこの作品は注文によるものではなかったのであろう.生前,ヴェネツィアはもとよりヨーロッパ各地にまでティツィアーノの名声は及んでいたが,その名声を支えていたのは聖職者や貴族,それに有力な君主を顧客とした例えばフラーリ聖堂の「聖母被昇天」のような作品群である.「ニンフと牧人」はそのような作品では無い.ここでは最後の絵画的メッセージという形でティツィアーノは自分自身の思想を語っているように見える.
 暮色か,日没後の夜か定かではない暗い森の遠景には一本の枯木が枝を落としてそびえ立ち,そこにはおそらく鹿と思われる一匹の動物が足をかけて起立している.近景には一人の若い牧人,2本の手には奏ずるのでもなく笛が握られ,凝視を受けるニンフは見事な裸身のまま背を向けて動こうとしない.

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ニンフと牧人;1876?,ウィーン,美術史美術館,150X180cm

■僕がこの絵の複製画を最初に目にしたのは平凡社が1959年に発行した世界名画全集第5巻;“イタリア・ルネサンスの展開”の中の一ページである.平凡社は全36巻の「世界美術全集 」を1927~1930にかけて刊行しているが,これは1960年代に始まる美術全集ブームのさきがけとなった第2次「世界美術全集 」の方で,大学一年時に仙台の本屋の店頭で見かけて購入した.しかし,同じ頃に発行された講談社,「世界美術体系」や後の小学館「原色世界の美術」等の豪華本にくらべて印刷の質は低く,版もB5と貧弱で,視覚的な強烈さから言えば「ニンフと牧人」が50年以上もその印象を継続したことが奇妙にも思える.事実,イタリア・ルネサンス期の画家で圧倒的に魅せられたのはダビンチとミケランジェロでティツィアーノはどちらかというと素通りするような画家のタイプに属していたことを告白しなければならない.しかし歳とともにこの作品と直に対面したいというこれまた奇妙な欲求が頭をもたげて来て,昨年友人がウィーンに留学した機会にこの作品の美術館所蔵を確認してもらった.「ニンフと牧人」は確かにウィーン美術史美術館の一角で静かに生きていた!

枯木と鹿.jpeg
画面向かって右上の枯木と鹿らしき動物

■なぜ自分はこの作品に魅せられるのかという謎を解明すべく僕自身が大学教養部時代に試みたのは,作品が包含するものを感じるまま別の作品に転位して表現することであった.サイズとしてF120号(194x130cm)のキャンバスを張り,油絵具で一気に描き上げたのは2年生の夏だったと思う.登場人物は男性二人,女性一人の合計三人で全員着衣,場面は草原,奇妙なことに夜の背景には巨大なアンドロメダ大星雲が半ば昇ってくるという現実とは一瞥すると無関係な情景であった.
この自作の油絵は同時期の他の作品と同様失敗作ということで焼却処分してしまい,その写真記録も残っていないので記憶をたどるしかないが,色彩もデッサンもはっきりと覚えている.全体として深緑の闇に
沈む緩やかな丘の斜面で二人の若い男女が何やら草原の上で緩やかに語っている.それは主張しているようでも有るし,またそうでない様にも見える.議論というよりは語ることの中に沈積している二人,だが3人目の若い男は二人とは無関係のまま天空に上るペール・イエローの大星雲を見上げて凍り付いている.青年の髪の毛が揺れる.風に乗る哲学的な会話.自転する大地.季節は秋も終わりだろうか.

 
■「ニンフと牧人」の中の性的なメッセージを僕自身は本質的なものとみなしていなかったことは確かである.むしろこのニンフと牧人との間の関連を,ある種の普遍的な関連,世界における人間のありようとして受け止めていたように思う.しかしそれではなぜ夜なのか?朝に始まる覚醒と活動こそ人間らしさそのものではないのか.
朝日を浴びながら忙しく新聞に目を通し,眠気覚ましに熱いコーヒーをすする.通勤の電車やバスから一斉に吐き出される人々,何かに押されるように足早に歩く無数の足音,いたる所で響き渡る騒音,昼こそ人間の欲望が紡ぎだす世界そのものだ.夢と言ってもよい.しかし,そこにこそ人間の原罪,思考の停止の源流が有るという考えも成り立つのだ.夜を選択することにより僕はむしろこの異論の方に傾斜していたように思う.

■それから半世紀以上が過ぎた.忘れていた記憶が再び生命を得て封印から飛び出したのは,全く予想もしていなかった課題の探査と交差したからである.その課題とは「ヒトと動物」というアポリアに満ちた領域と関係がある.しかし,この課題そのものを論ずることは今回のブログでは無謀過ぎる.この小論ではただ「ニンフと牧人」というティツィアーノ・ヴェチェッリオ最晩年の作品が,アガンベンという現代を代表する思想家の一人にとって如何なる意味を持ちえたのかについてのみ触れて見たいと思う.
 ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)は1942年生まれのイタリアの思想家である.哲学や言語について圧倒的な文献の引用から学究の徒を予想するものはおそらく裏切られるだろう.彼は社会的関心が強い問題,特に政治思想に果敢に挑戦している代表的哲学者の一人である.その彼が2002年「開かれ」というタイトルのモノグラフを世に出した.“「開かれ」―人間と動物;ジョルジョ・アガンベン著,岡田温司,多賀健太郎訳,平凡社,2011”

■本書は全体が比較的短い20章から構成されていて,各々の章は独立した内容というよりは山脈のように連なりつつ無数の入り組んだ登山道が最終20章に向けて結び合わされる構成となっている.「ニンフと牧人」はこの第19章“無為”の劈頭に登場し,19章全体で終始決定的な役割を果たしつつ第20章“存在の外で”に引き継がれて行く.とすれば19章もまた先行する章との関連でしか理解できないということに成るが,それでは全体を紹介することになってしまう.粗雑を承知で,この“無為”な絵画の意味の解読をアガンベンに沿ってたどることにしたらどうなるのだろう.そもそもこの一読して不可解な“無為”の語がなぜここに登場してこなくてはいけないのか.アガンベンは系統発生的な語の解説を一切していないが,訳者が註で詳細に解説しているようにそれはジャン・リュック・ナンシーによる1983年の著書;「無為の共同体」とそれに呼応して出されたモーリス・ブランショによる「明かしえぬ共同体」を踏まえたものであろう.ナンシーはその大著「無為の共同体」を次のように切り出す.“現代世界に関する証言のうち最も重要で最も苦痛にみちたもの,いかなる命令あるいは必然性によってなのかわからないが(というのも,われわれはまた歴史という思考の涸渇をも確認しているからだ),ともかくこの時代が果たすべきものとして負わされたさまざまな証言のうちで,おそらく他のいっさいを包括しているもの,それは共同体の崩壊,解体,あるいはその焚滅をめぐる証言である”と(「無為の共同体」,西谷修・安原伸一朗訳,2001,以文社).ブランショもまたこう繰り返す.“共産主義,共同体,といった用語は,歴史が,そして歴史の壮大な誤算が,破産と言うをはるかに超えたある厄災を背景にしてそれらを私たちに認識させる限りで,まさしく一定の意味を帯びた用語である”と(「明かしえぬ共同体」,西村修訳,1997,筑摩書房).彼らが一様に搾り出す言葉の背景は状況であり,歴史にあるのだ.ナンシーもブランショも,それでも必死でまさに滅びようようとしている共同体の汚濁の中から捨て去ることの出来ないものを掬い取ろうとする.その中心に位置する言葉の一つが“無為”ということになる.

■無為は無為徒食などと組み合わされて,何もしないでいることが文字通りの意味となる.彼等の主張をなぞってみると,この意味と関係がないまったく別の方向性を模索しているというよりは,むしろそれを日常次元まで徹底しようとしているようにも見える.つまり,日常活動での“営み”に吸収されてしまいそうな“行為”を“営み”から分節し,それをより根源的な視点から構築しなおすということである.例えばブランショは書くという行為が,生産的な営みととられがちな執筆行為とは等価でないこと,それどころか行為として書かれた“作品”は真実もなければ現実性もなく,労働の真面目さもない能動的行為の産物として,営みがめざす作品から逸脱し,自身を解体しつつ言語自体を作品から自由にすると主張する.ナンシーはさらに人間の死が人間の死であるかぎり共同体を前提とするとして,デカルト的個人の死の不可能性を共同体の根底にすえようとする.国家,民族,神話等に結局はとりこまれてしまうような昼の活動,労働や合目的な組織化としての営みから徹底的に逸脱し,行為の原型から人間の生と言葉を救済するというこの“無為”の戦略はアガンベンではどのように展開されるのだろうか.
 もう一度「ニンフと牧人」の二人に帰ってみよう.「消耗した官能性と物静かな寂寞感とが同居した雰囲気の漂う,この謎めいた道徳的=精神的風景を前にして,数々の研究者たちは当惑を隠しきれないし,どの説明も納得のいくようなものではない」とアガンベンは指摘しつつ,暗にそれらの説の中でゆらゆらと揺らめく恋人たちの神秘的高揚という前提そのものに疑いの目を向けようとする.「気持ちの冷めた恋人同士」(Panofsky)や「エデンの園を喪失してしまった」(Dundas)という表現は高揚の陰画として存在しうるのであろう.しかし,アガンベンはこの二人の覚醒,神秘からの覚醒,互いの神秘の不在から生まれる無活動;無為こそナンシーやブランショの無為の共同体につながるものと期待しているように見える.しかし書くという行為によって救済されるとされたのは言葉と人間の生であった.恋人たちの互いの神秘からの覚醒からは何がもたらされるのか.それは人間的でも動物的でもない新たな至福の生,ハイデガーが真理の特性として言及してきた隠蔽と露顕,むしろそれの彼岸にある至高の段階だとアガンベンは結論づけている.

■「ニンフと牧人」で僕が見たのは無為の会話の世界,つまり昼の営みとしての会話ではなく昼の活動が終わるときに始まる行為としての会話であった.この背景には人間の終焉という宇宙の劇場が回転していなくてはならない.救済されるのは歌だろうか,それとも言葉とか,しぐさとか,瞑想とか,身振りだろうか.確実に言えることは国家とか,民族とか,神話とか,幸福な生活とかではないことだ.その具体的イメージを復活すべきかどうか僕は今迷いの中にある.

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ken

ピエロ=ディ=コシモ

の「プロクリスの死」のことを思い出しました

http://www.nationalgallery.org.uk/upload/img/piero-cosimo-satyr-mourning-over-nymph-NG698-fm.jpg

しかし、これは死者を愛惜する牧神

自作はこれです

http://www5d.biglobe.ne.jp/~sakawa/pan-3.JPG

あと、中井英夫さんの「牧神の春」のことも思い出しました
by ken (2014-12-08 15:14) 

sym

Kenさん

動物は絶対人間のところにはやって来ないだろう,
 とハイデガーは言います.
もちろんこれは世界についてのことです.
 でもどこか違うのではないかと思う時があるのです.

「プロクリスの死」ではイヌはヒトを見ていますね.
誤解でしょうか.擬人化という・・
 絵は自作のほうが面白い!

 
by sym (2014-12-08 15:50) 

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