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■水についての小さなエピソード ③波濤または解放の黙示録 [絵画制作と絵画論]

 昭和20(1945)年7月6日深夜,山岳の中核都市甲府は131機の
B29戦略爆撃機が容赦なく落とす970トンの焼夷弾を受けて
炎上,消失した.2万6千戸の住宅の7割が被害を受け,市街の
中心部の焼け野原には黒焦げの遺体が散乱した.暗黒史に残る
甲府大空襲である.甲府市の戦後復興はこの焦土無しには語る
ことは出来ない.ところが敗戦と同時にバラック小屋の建設が始まり,
水道,電気,通信等のインフラも困難をおして着々と進行していった.
翌1946年には戦後初めての市制祭が開催され,愛宕山からは打上
花火が上がったというから驚く.あまり落ち込まない国民なのだ.

 治安に関しても,夜道が恐くて歩けないという犯罪都市には
ならなかったが,これには治安を担当する警察が自治体警察として
早くから再建され,質的低下が大きな問題にならなかったことが
幸いしたのであろう.父が甲府警察署の署長として治安の任に
あたったのは戦後数年もしない激動期で,官舎から早朝の朝礼や
点検の姿を観たことを憶えている.

1950年代警察訓練.jpeg
1950年代初めの警察早朝訓練の光景

 その父が何かの所用で上京する機会が有り,はっきりとは
理由を憶えていないのだが一緒について行くことになった.
小学生の自分には何がどうなっているのか分からなかったが,
甲府署の建物とは比較になら無いような巨大なビルに連れていかれ,
入口の木製の椅子で父の用件が終わるのを大人しく待っていた.
しばらくして父が,言葉使いの丁寧な一人の紳士と連れ立って戻って
来た.「これがうちの豚児で・・・」と息子の頭をなでながら二人とも
楽しそうに笑っていたのを思い出す.それから父と僕は車で
海岸に移動し,比較的小型の船に乗り込んだ.10m以上は有った
と思うがそれがどのような性格の船かは定かではない.艇はエンジン
音と共にしぶきをあげて走り出した.それまで高速艇に乗ったこと
がない僕には夢のような瞬間である.それが,湾内を抜けると緊張に
変わった.いきなり大波が襲って来たのだ.船内で足をふんばり
手すりにしがみついていたが,ふと見あげると心配そうな父と目が
合った.小山のような波に向かって船は突き進む.そこからまた
谷底に滑り込むという具合で,船は上下左右に激しく揺れた.
爽快とも思える感覚!波濤を越える体感が記憶の中にしっかりと
刻みこまれた.

第九の怒涛.jpg
19Cロシアの画家アイヴァゾフスキーによる「第九の波濤」,1850年,油彩

 荒波に魅せられた画家は少なくないが,芸術的到達度から見ると
傑作はそう沢山は無いように見える.海洋画家としてウィンズロウ・ホーマー
とならび賞賛されるロシアの画家;イヴァン・アイヴァゾフスキーは
どうであろうか.2007年,国立ロシア美術館のコレクションが上野に
やって来た.その中には「月夜」などアイヴァゾフスキーの名品も
含まれているという.「第九の波濤」は無かったが多少期待するところも
有って上京することにした.1969年,講談社刊,「クレムリン・ロシア美術館」
で作品を目にしていたからである.結果は正直がっかりした.
月光に輝く海など通俗に止まり,ロマン主義の核心部分;死と生の相克を
突き詰めての作品とは思えない.これは同会場に飾られていた
レーピンの大作;「何という広がりだ!」の無残な出来とも関係がある.
この時代のロシアのリアリズムの作品群は旧ソ連の社会主義リアリズムを
先取りしているようで,一種の絵画的後進性を感じたのは僕だけだろうか.
なまの主題への依存が芸術的緊張を二の次にしているように思えるのだ.

クールベ波1870.jpg
クールベ,「波」,1870年頃,油彩,国立西洋美術館,松方コレクション

 諸流派が興隆した近代フランス絵画の流れの中で,荒海と言えば
クールベの「波」が真っ先にあげられるべきだろう.大学時代,仙台と甲府を
休暇で行き来した時,上野で途中下車し,国立西洋美術館で時間をつぶす
のが習慣になった.その時必ず観たのがクールベのこの作品である.
同じモチーフでクールベは何作も制作しているので他と比較したのかと
言われれば自信は無いが,大波への執拗な追求が観てとれる佳作だと思う.
仕上げた年は1870年,パリコミューンの始まる前年である.すでに
「オルナンの埋葬」をものにして画壇本流に抗し,偽善とタブーに「写実」
という挑戦状をたたきつけた気迫がみなぎっている.クールベは現実の
荒波を前にして,それを越える動き,動乱の時代を見ているのだ.
翌年パリ・コミューンが成立するとコミューン議員に第六区から選出され
市庁役員,文部委員,芸術家連盟会長に就任する.
 この複眼の視点は写実の方法論と矛盾しないのだろうか.海と空に
目を据えれば据えるほど,その具体的な姿から観念は飛翔しようと
しないのだろうか.逆に写実の目は観念を抑圧して,具体的な波の
描写に画家の作業を閉じ込めようとしないのだろうか.多くの通俗的
海洋絵画は迫真の描写力で観るものを圧倒する.あるいは市民的安住の
中で温和な描写を楽しむことになる.要するにカメラの目だ.ここには
描こうとする姿と観念との間に矛盾は無い.クールベのような強烈な自我に
とって,「写実」という方法論は反権威のモチーフに止まれば行く手を照らす
光となるが,象徴性の高い主題では一種の足かせとなる.こうした視点から
再度「波」を読んでみると,空も海もどこか中途半端な描写に見えてくる.

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ターナー,「嵐の中のオランダ船」,1801年,油彩

1842ターナー.jpg
ターナー,「吹雪ー港の沖合いの蒸気船」,1842,油彩

 写実という絵画的方法論は一時の中継点のようなもので,一度観念と
描写の均衡が破られれば後は雪崩のように崩壊することなるだろう.
クールベはその一歩手前に止まった.実体に拘ったのである.
現実の波の姿を打ち破って,絵画的冒険に歩をすすめた開拓者の
一人は19Cイギリスの画家,ターナーであろう.かれの比較的初期の
作品は戦闘的ロマン主義の典型ともいえる劇的風景を好んで描いている.
ターナーもまた内なる嵐をかかえての変革の人だ.しかしクールベと異なって
ターナーにはプルードン主義のような空想思想にのめりこむ運命を
背負ってはいない.ターナーの沸騰するエネルギーが向かったのは
絵画的光の中で,色彩を形態から飛翔させ,両方の調和を破る
ことである.これはドラクロアにも言えることで,印象派の先駆を
ターナーだけに求めるのは僕には公平な評価とは思えない.
いずれにしても,絵画における形態や色彩はその有り方を根本から
揺り動かす方向で動き始めた.

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SHIDA, 「波濤」,油彩,F120号,1965年頃?

 とすれば,その後の印象派の動きは,外光の中で捉えられた
一面といえなくも無い.つまり印象派が嫌った夜の世界ではまた
別の絵画的原理が働きうるということである.さらに展開すれば,
光と闇がせめぎあう世界では,第三の絵画が生まれうると
いえないだろうか.これはまったく個人的な気質の問題かもしれないが,
大学時代,僕には印象派的絵画の氾濫がどうしても馴染めなかった.
ゴヤの晩年作がモネの睡蓮で蹴散らされたと言われても困るといった
理屈である.そこで思い立ってF120号の油絵;「波濤」の制作に
とりかかった.仙台から近郊の菖蒲田海岸までバイクで一時間半
もあれば海を観に行ける.昼だけでなく,月光の深夜,大波の
押し寄せる日を狙って何度か出かけた.どのくらいで描きあげたのか
忘れたが,授業や研究を縫っての制作でそれほど時間はかけられ
なかったはずだ.ところがこの大作は幻の作品となって今は無い.
もうとっくに時効だからは白状するが,自分の手で破り棄てて
しまったからである.理由はさる地方新聞社主催の公募展に応募し,
見事に落選したことがきっかけとなった.どこかが決定的に未熟だった
のだろうと,入選作を観に行き2度ショックを受けた.このような
素人の手遊びと比較され,相手にもされなかったのだと思うと
怒りを抑えることが出来なかった.この類の落選が数回続き,
日本の公募展に応募することを止める決断をしたのはそれから
数年後である.退路を絶つためにも身近にあった過去の作品は
総て破り捨て,出直すことにした.他人に寄贈したものはどうなった
か分からない.何万円かで購入していただいたものはどこかで
生きているのだろうか.
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コーミン

symplexus さんへ
私は絵画に関しては詳しくなく、国内でもめったに美術館へは行かなかったのですが、3年連続してオランダへ出張した際に、アムステルダムの国立博物館やハーグのマウリッツハウス美術館訪れる機会を持ちました。 そこでレンブラントやフェルメール、その他著名な画家の描いた絵画を見ることが出来て、その素晴らしさに感激したことを覚えています。

ところで、私は甲府生まれで、甲府大空襲を体験しています。 まだ2歳半でしたが、住んでいた家に焼夷弾が落ち、防空壕から出ると火の海で、母に連れられて田んぼの中へ避難したことを今でも覚えています。 あまりにも強烈な印象だったからでしょうか。
by コーミン (2010-09-27 17:43) 

symplexus

>コーミンさん
 オランダに出張とは羨ましいです.
日本でひしめき合いながら
 オランダの巨匠画家の作品を観るのと,
運河に囲まれた町を歩きながら,歴史を感じて
  名品の洗礼を受けるのでは印象も違ってくるでしょうから.
   円高の今は旅行のチャンスですが,
  ケアを必要とする者達は
 お土産程度では許してくれないかも・・・.

甲府大空襲の時,僕は長坂でした.今でも
 そこから見た燃えあがる甲府の光景が忘れられません.
  絨毯爆撃は論外ですが,爆撃が予想されながら
 必要な避難方法を確保する議論も無かったとか.
5歳だった僕も本土決戦となればどうなったのか,
 考えると不思議な気持ちになります.
 後で知ったのですが,大都市圏では機銃掃射でちぎれて死んだ
 人も多かったようです.戦争の狂気の記憶です.
 
  

by symplexus (2010-09-27 20:43) 

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