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■抽象絵画の個体発生;①眠りの中の異界&真実 [絵画制作と絵画論]

●抽象絵画の創始者としてウィキペディア (Wikipedia)は慎重なもの言いながらも
カンディンスキーの名をあげ,その時期を1910年頃としている.
これはカンディンスキー本人のインタビュー記事とも整合するものであり
一つの美術史的見解かもしれない(ニーレンドルフのカンディンスキー
会見記;1937年3月,ニューヨークのニーレンドルフ画廊でカンディンスキー
の個展が開かれた.この個展に先立ちカンディンスキーが受けたインタビュー
記事がここにいう「ニーレンドルフのカンディンスキー会見記」である.
以下のサイトにはSE(DBエンジニア);ミック訳の本会見記が公開されている.

http://www.geocities.jp/mickindex/kandinsky/knd_interviewN_jp.html ).

しかし,ここでいう抽象絵画の登場を近代絵画の様々な潮流
との関連で追跡するなら,単独の「創始者」とは異なる歴史絵巻
が浮かんでくるようにも思う.残念ながら美術史の門外漢である
僕には資料を渉猟し,それを分析するだけの力量はない.

●一方個人的なことにひきつけて考えると,近代の抽象絵画が登場して以来
50年以上も経過した時点で古い絵画様式の呪縛から四苦八苦して脱皮
を繰り返し,それから10年,20年をかけてようやく抽象画にたどりついた
周回遅れの間抜けな美術家の僕には,個人の精神史としての必然の方が
興味がある.もっと分かりやすくいうとなぜ生きている現実世界が持つ豊な
イメージを捨てて,抽象化された色や形に絵画的魅力を感じるのかという
ことである.私設の個人的ギャラリーで作品を展示して頻繁に経験して来たことは,
毎回のように発せられる”何を描いたのか”という客からの質問であった.
画面以外に解答を求める発想は決して過去のものではない.
一方で西洋近代絵画史の初頭に花開いた新古典主義,ロマン主義,写実主義
など主題を前面に押し出した諸作品の表面をなぞると,非具象を特性とする
抽象絵画とはおよそ関連のない別の水脈の表現のように思えるだろう.
しかし,本当に絵画の水脈はそのように分断できるものだろうか.
相互に否定の関係で結ばれている諸潮流とは,つきつめたところで否定の
異界に跳躍した家出息子のようなものである.

眠りWs.jpg
「眠り」,1964年?, 志田 寿人,紙にクレヨン

●ここに一枚のクレヨン(さくらクレパス)画がある.未だ抽象画に到達する
以前の作品で,大学時代に仕上げられた未発表の古典的習作である.
青緑の沈んだ色調を背景に目を閉じた青年がうつ伏せに近い姿勢で
横たわっている.ただそれだけの作品だが,どこか現実感が無いような
有るような人物像はおそらく当時の自分自身を投影し,分析的にとらえた
ものであろう.目に見える具体的な世界があたかも真実に迫るための
障害であるかのように目を閉じて観ようとはしない,その姿勢からこそ
真実が見えてくると思っていたのだろうか!?このよう目を閉じ,眠りに
落ちたような人物像は幻想絵画に魅せられた画家の作品にしばしば
登場する.

ゴヤ43.jpg
『気まぐれ(ロス・カプリチョス)』より,「理性が眠れば妖魔が生まれる」,1799年,ゴヤ,銅版画

ゴヤの版画連作;「ロス・カプリチョス)」の一枚,
「理性が眠れば妖魔が生まれる」は良く知られているが,他にルドンの
「目を閉じて」がそれだ.面白いことにクレーにも「absorption」なる作品がある.
これらの作品の絵画的魅力はもちろんこのような観点から生まれるわけでは無い.
ただ,具体的対象物から画家の関心が何故離脱していくのかという
その一点から現実との対処のしかたを問題にしているのだ.

目を閉じて.jpg
「目を閉じて」,1890年,ルドン,キャンバスに油絵具

KleeAbsorption.jpeg
「Absorption」,1919年,クレー,紙に鉛筆

●”大切なものは見えない”は「星の王子様」のなかの良く知られたセリフである.
これは常識ともいえる真実であって,なにごとかの表現をもっぱらとする絵画
特有の考え方ではもちろんない.芸術で括られる様式の中でも音楽では
芸術的真実は当然見えないとの了解がある.詩も物語りもそうではないのか.
だとすれば,むしろ見慣れてきた具体的対象物に密着させて絵画的意図を
実現させようとしてきた具象絵画こそ,芸術のありようを誤解させる例外的存在
だとはいえないのか.分かり易くいおう.そもそも我々が見える世界は,世界の
ほんの一部である.視覚が感知できる波長は狭く,見える物体像は分解能の
制限を受けて本当に大切なものは見えない.しかもこれは事実を争う科学の
世界だ.我々が本当に大切だと思っているものはどうか.愛情とか,誠実とか,
友情とか,正義とか,殆どが見えないところに我々も迷妄の根拠があるのでは
ないのか.即物的な面にこだわる絵画は芸術の呪われた形式かもしれない
という疑惑が黒雲のように湧き上がっても不思議ではないだろう.だが,
その時天啓のように一つの言葉が鳴り響くのだ.目を閉じよ!と.



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コメント 2

movielover

抽象絵画の創始者はカンディンスキーなんですか?
知りませんでした。
もっと昔からありそうな気がしてましたが…。

ゴヤの版画連作「ロス・カプリチョス」最近どこかで観たのですが、
どこで観たのやら、忘れてしまいました。
人の記憶ってあてにならないですね(笑)。

by movielover (2010-11-18 01:38) 

symplexus

movieloverさん

 コメントいただきながら,気づかずに失礼いたしました.
ブラックやピカソが最初に発表したキュビスムは
 抽象絵画では無いのですが,
これは厳密性に依存するかもしれません.
 大なり小なり絵画には抽象性があるとすると
  (これは正当な意味を含んでいるので)
 ごちゃごちゃなってしまいそうです.
 続きでもうすこし展開するつもりですので
その時はアクセスいただけたらと思います.

 ロス・カプリチョスのシリーズ,僕も現物は観ていません.
1969年Dover刊行のLos Caprichosにはシリーズが
収められていて,これを購入し研究しました.
by symplexus (2010-12-01 11:02) 

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