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■生き物と人間との戦争 ②山成す白骨;北米バイソンの悲劇 [生き物]

●一枚の写真が語るもの;計量される死
ここに一枚の写真がある.撮影は1870年代中頃,肥料として使用されるの
を待つアメリカン・バイソン頭蓋骨の山だ.頭骨を手にし,足を置き,誇らし
げにポーズを取る二人の人物にいささかの感傷も無い.むしろ戦利品を手
にした勝利者が示すありふれた姿のようにも見える.

BisonSkullPile.jpeg
Photograph from the mid-1870s of a pile of American bison skulls waiting to be ground for fertilizer. Wikipedia(Englishi) 

一人の人間の死は,それがどのような死であれ,臨む人間にとって厳粛
な苦痛の瞬間であると思う.そして,もしそれが我々に類縁の動物であっ
たとしても,何ほどかの苦渋の痕跡を消し去ることは不可能だ.しかし戦場
では死は数として計数される.要するに死は足し算され,その効果が演出
されうることが示される.19世紀ロシアの画家,ヴァシーリー・ヴェレシ
チャーギンはバイソンの頭蓋骨ではなく,ヒトの山成す頭蓋骨でそれを描
いてみせた(戦争崇拝;額縁には「過去、現在、及び未来の全ての偉大な
侵略者に捧ぐ」が刻まれている).ただし,画家の眼差しには多くの悲しみ
と苦痛が秘められ,戦争勝者への一片の礼賛もない.この批判精神の地
平に連なる21世紀は反省の世紀なのだ.

300px-Apotheosis.jpg
Vasily Vasilyevich Vereshchagin (1842~1904), The Apotheosis of War,Tretyakov Gallery.Wikipedia(Englishi)

ヨーロッパから移民がおしよせる以前の北米大陸には6000万頭以上バイ
ソン(しばしばバッファローとも呼称される)が草原生物群集の一部を形成
していた.この草原の複雑な動物ネットワークが,近代という時代を生きる
人間の侵入によりずたずたに引き裂かれ崩壊したこと,この人類史に残る
環境破壊の惨劇を否定する生態学者はいない.中でもバイソンに加えら
れた過酷な仕打ちは「ヒトと動物」の関連を考える上で忘れてはいけない
事実として記憶に留めておく必要がある.

●ゲームとしてのバイソン殺戮
コロンブスがハイチに到着した1500年前後,北米バイソンの棲息分布はど
うなっていたのだろうか.出典は明らかではないがピーター・ファーブによ
ると東部ニューヨークから西のオレゴン,北部カナダから南部メキシコの全
平野部を覆い尽くしていたという(ライフ/ネーチュア ライブラリー,生態,
坂口勝美訳,1971, p.149).ところがこの北米大陸の一大生息地域は,欧
州からの移民と共に激減し,ついに1906年までには初期分布からは点状
にしかみえないようなほんの小地域に縮小してしまう(イエローストーン公
園内とカナダのアタバスカ湖付近).一体この間何が起こったのか.白人
の渡来以前に土着のネイティブ・アメリカン(通称アメリカ・インデアン)に
よってもバイソンは好んで狩の対象とされて来たが,これはバイソンが衣食
住や交換商品としていかに有用だったかを考えればある程度理解できる.

BisonFight.jpg
Two bison are fighting in Grand Teton National Park,Wikipedia(Englishi)

馬の登場はこれを加速させたが,それでも平均年間狩猟頭数は25万頭程
度だったという.鉄道を敷設し,銃を携えた白人達はこのバイソン狩を絶滅
戦に変貌させた.食料や毛皮といった1800年代初期の実用的目的を超え
て,殺戮そのものが自己目的化したかのような後期のエピソードは人間の
暗部を露呈して暗澹たる気分に叩き込まれてしまう.車窓からバイソンを撃
ちまくるという狩猟特別列車の企画など,いかなる理屈でこれを受け止め
たらよいのだろうか.沿線でその犠牲となってのたうち,うめく無数の血ま
みれのバイソンの姿を楽しむこと,このことに何らの制御も働かなかったの
は他でもない我が同胞;ホモ・サピエンスである.

●誰の生活圏を破壊するのか?
ともあれ合衆国では1894年,総数20頭という現実を前にして初めて罰則を
伴なう厳しい保護政策が制定され,バイソンは絶滅をかろうじて免れた.し
かし,このバイソン激減の傷跡はバイソンという大型草原草食動物一種だ
けに限定されたものではない.北米草原にはバイソンに代わり牛や羊が放
たれたが,これらを襲うという理由で「害獣」としてオオカミ等の肉食獣は容
赦なく「駆除」された.毒餌は普通の駆除手段であり,死んだ肉食獣を啄
ばんだ鳥達も犠牲となった.その結果それまで脇役に甘んじていた昆虫
や小型げっ歯類の数が増大することにより,膨大な数の家畜とあいまって
草原はその豊かな相貌を一変させた.19世紀初期の北米広域植生がどう
なっていたのか調べたことは無いが,バイソン生息域と対比させればそこ
が砂漠の範疇に入らなかったことは容易に推察できる.

TexasR62a.jpg
エル・パソからカールスバッドに到るR62/180沿の一景.砂漠と言っても語 弊がないような荒涼たる平原が広がる

しかし,砂漠化の世界地図は驚くべき現状を鮮やかに色分けして見せる.
北米西部平野部の少なからぬ地域が急速にその土地の豊かさを失い
つつあるのだ.

砂漠化世界地図.jpeg

激減したバイソンがかっての繁栄を取り戻すことは決して無いだろう.それ
は我々人類の営為が,時代そのものを総体として逆走させることが出来な
いことと関係がある.もっと端的に言うなら,バイソン自体が生きるための環
境を我々人間が破壊してしまったからだ.
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●生き物と人間との戦争  ①メガ・ソーラーが来る [生き物]

■廃墟に生まれた新計画
工房のアクセス道路の途中に旧蚕業試験所がある.県総合農業試験所分室とし
て変身したのもつかのま,結局使われなくなった建物群を残したまま数年前
全面撤退してしまった.主を失った敷地内にはススキ・クズ等が生い茂り,放置さ
れた巨大な松のいくつかは次々と枯れて,荒涼たる風景が広がるようになってき
た.そこかしこにある入口には「立入禁止」の立て札や色あせた紙切れが神経質
に人の進入を拒んでいるがちょっと笑える.リラと散歩していたら,学生風の二人
連れに「ここは心霊スポットですか」と話しかけられたからだ.人気の無い廃屋な
んぞは胆試しぐらいにしか使われないのかもしれない.
 この旧蚕業試験所の跡地とそれを囲む里山についての現状については以前
このブログで少々書いたことがある.

http://symplexus.blog.so-net.ne.jp/2009-08-20

経済原理で動くのは旧蚕業試験所も里山も例外ではなく,やがて功利の標的
となった土地は動植物の悲鳴など無視して開発の重機が進軍するであろうという
かなり感情的な見通しであった.ところがこの2年前の予想さながらに,風景が一
変するような計画が10月に県から提起された.メガ・ソーラー計画である.

10月28日2011正門.jpeg
晩秋に撮影した旧蚕業試験所遠景.手前に見えるのはソメイヨシノと高いポプラ,黄色く色付いたプラタナス等

■山梨2011メガソーラー構想概略
2011年10月11日付けの県広報によると設置場所は甲斐市菖蒲沢 (旧蚕業試験
場.約13ヘクタール)と韮崎市大草町下條西割 (あけぼの医療福祉センター東
隣未利用地.約11ヘクタール)の2ヶ所の合計24ヘクタールを一括,メガ・ソー
ラー 公募民間事業所に提供するという.ただし伐木、伐根、除草は当初県が行う
が,その後の建設,設計,施工,事業運営については事業所がすべて責任を負
うと抜け目がない.想定出力は11メガワット,「地球温暖化対策のためクリーンエ
ネルギー活用を推進している」という山梨県の宣伝にもなるし,東京電力管内の
電力供給に貢献して今年のような節電騒ぎを回避する一助にもなる.それに固
定資産税は毎年確実に地元の収入となるというわけだ.スマート・グリッドのような
革新的配電システムをも視野に入れて,リスク覚悟で時代を切り開くといった類の
ものではない.いずれにしても公募の受付は始まったので11月末には参入業者
の最終結論が決まるのであろう.

4月10日桜2010.jpeg
本年4月に撮影した構内の桜.廃墟をあざ笑うかのように満開が美しい!

■脱原子力は賛成だが・・
原子力発電という悪魔的技術を考えれば,太陽光発電に力に入れることが賛成
であることは言うまでもないことである.その不安定性や”コスト”をあげつらう論調
が無いでもないが,どこまで総エネルギーの中の比率を高められるかは別として
太陽光発電はある意味技術の良心を問われるという面がある.予算が許すなら,
工房の屋根に設置も検討しようと考えてきた.しかし個人住宅と規模が比較にな
らないメガ・ソーラーとなると微かな不信感が頭をもたげるのはなぜだろうか.
おそらく工房が隣接する里山の現状がどうなるのかという不安と関係があるのだ
ろう.茅が岳の長い裾野に位置するこの地は,背後が多くの山稜連なる緩やかな
丘陵地である.蚕業試験場時代に植樹したと思われる多数のソメイヨシノの桜が
南斜面を縁取り,空に向かって聳え立つ巨大な4本のポプラやヒマラヤスギ,プラ
タナスが往時をしのばせている.幹周りが二抱えもありそうな構内の松やコナラは
開発時植生を一部残して構内を仕切る舗装道路の人工色を和らげようとしたの
だろう.主が去った無人の構内は当然ながらキツネやイノシシ,リス,フクロウに
とっては格好の出没場所となった.もっとも人には好まれないヤマカガシ,マムシ,
シマヘビの類も増えたし,オオスズメバチやキイロスズメバチも極普通の構成員
と成ったのだが.

10月15日アケビ2011.jpeg
エノキにからみついていたアケビの実.良く熟れておいしそうなのに未だぶらさがっていた.

■生き物 versus  鉄・コンクリート
しかし,ソーラー・パネルを20ヘクタール近くに敷き詰めるメガソーラーも,物理
的存在としては砂利とアスファルトで舗装した道路やコンクリートで土台を固めた
建物と大差ない.人間が己の物質的幸福のため生物生活圏に進入し,これを簒
奪,支配するという開発行為は何も内陸部メガ・ソーラーに始まったことでは無い
のだ.物質とエネルギーの時代で特徴付けられる近代では市街地の野生動物排
除は徹底し,一般的には迷い込んだ野生動物は容赦なく排除,殺戮されるように
なった.ヒトもまた動物の一員であるが,選ばれた神の選民のように人間と動物を
対峙させ,自らの動物性といかに向き合うかという哲学を不問に付してきたのが
近代の主流である.ヒト以外の動物に対する人間界の惨い仕打ちを「戦争」と形
容するのは事実の追認で有っても論外とは言えないだろう.もの言わぬ生物達は,
宣戦布告も無しにまるで無機質を扱うように生物達をなぎ倒し,根こそぎにしてい
く人間達の進軍を黙って耐える以外手が無かったように見える.だが僕自身は持
続可能な社会とか,環境負荷を減らすとかにはそれほど心を動かされないから環
境保護論者ではないのだろう.低次元の消費爆発やブレーキを失ったような経
済活動の反作用を直視すれば,このままの経済成長が成り立たなくなるのは当
たり前で軌道修正の論調は経済原理の範囲内の論理だと思う.

10月1日新道路2011.jpeg
試験場跡地に接近する建設途中の新道.左手には新田の溜池がありサギやカモが訪れる.

■価値観の落差
 それよりは,この地上で生を受けて生まれた生き物が,ヒトとその他でかくも異な
る価値観の対象になぜなるのか,その疑問が僕の頭の中に居座って出て行こうと
しないのだ.飢えて死に直面している百万の民のために,我々の一日分の米を
提供しようという呼びかけですら,一過性のアジテーションとして風化していくのが
常である.他の国の悲惨を見聞きしてもばかばかしい娯楽の類をあきらめようとし
ない自分がいるから,日々の生活を生きなくてはいけない僕等には偽善としか映
らないのだろう.人間界のことですらそうだから,動物達の悲劇など推して知るべ
しではないのか.そうではあるが,身近に目撃したキツネやイノシシの姿を想い出
すと,ここら辺で立ち止って考えたらどうかという声も微かに響いてくるから不思議
だ.

8月2日カブトムシ2011.jpeg
コナラの樹に群がるカブトムシ達.一見したところでは普通サイズに見える.本年8月2日撮影
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